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秩父という地名は

紀元前から存在する知知夫国の謎にせまる

紀元前から存在する知知夫国の謎にせまる

紀元前から存在する知知夫国

秋父は遠く第十代崇神天皇(紀元前97~30年)の御代に、知知夫国として開かれ、後武蔵国の一部となったようです。
それ故、昔は「知知夫」と書きました。
その事は旧事紀国造本紀に、知知夫国造、瑞籬(みずがき)朝(の)の御世に八意思兼命の十七世の孫 知知夫彦国造に定め賜ふ。
と記されております。

その後、第四十三代元明天皇(661~721年)の御代和銅六年(713年)に「畿内七道諸国郡郷の名は好字を著けよ」とせられたことや、延喜式の巻22の民部省上の中に「凡諸国部内郡里等の名は竝に二字を用ひ必嘉名を取れ」と定められたことによって国・郡・郷の名は二字に定められ、「知知夫」が「秩父」になったのだろうといわれております。
しかし、続日本紀、元明天皇和銅元年(708年)の条に「武蔵国秩父郡」とあることか見ると、秩父の文字は和銅六年のの出る以前に用いられたのか、又は続日本紀の編者がさかのぼって秩父の文字を用いたのか今もって不明ですが、とにかくこの頃から「秩父」の文字が用いられたようです。

さて、秩父という名は一種変った響きを持っていますが、この名義についてはいろいろな説があるようです。
1:秩父地方に銀杏樹が多く茂っているので、銀杏樹を古語で「ちちの木」ということから出て来たという説
2:「ちちの木」とするよりは、やはり秩父地方にある鐘乳石を乳石と呼ぶことから来たのだろうという説
3:「チチブ」は「千千峰」即ち沢山の峰のある地方の竟から起ったのではないかという説
4:アイヌ語の冷やかな清水のことを「ちちぶ」ということから来ている説

秩父という名は、昔は秩父絹等によって多くの人々に知られたと思いますが、近年秩父が急速に知られるようになったのは、我が国の地質学の時代に、先ずこの山地の研究が始められたことと、日本において代表的な結晶片岩類の露頭が荒川筋にみられて天然の標本室を形作っていることからでしょう。

このように地質学や、観光の面ではかなり有名ですが、その他の面ではあまり知られていません。しかし、既に上古の昔に開かれて現代に及んでいるからには、そこには京都や奈良のような華やかな歴史のあとは見られなくとも、幾多の苦難を克服してこの山地を開拓し。文化を築いて黙々と死んで行った先人の史話や語り草は数限りなくあろうと思います。

私たちがもっと手近かに具象的な歴史の姿を見つけて、その中で生活したとしたら、万物流転の相(移り変わるありさま)の中に理想や希望を見つけ、生きがいのある生活が出来るのではないかと思います。あるいはこれを正しい意味の伝統に生きるといってもいいでしょう。

(秩父史話より抜粋)